家族の体験談 S.Oさん
放浪の果てに・・・
放浪の果てに、今息子は警察に捕まっているというのに、このおだやかなのんびり出来る私はなんでしょう。一人紅茶を入れ、お菓子をつまみ、外を見れば山だって、雲だって、鳥だって、咲き残ったサザンカの赤い色だって、ゆったりと見えます。
今までのいやな事。みんな忘れて、なにか遠い娘の頃味わったことのある、そんな気分になっている自分が不思議です。
4年前、主人の導くまま、二人して名古屋の家族相談室、ナラノン、静岡家族会…と歩き、そして、そこでの岩井さんとの出逢い…。その中で茨城ダルクを知り、初めての茨城ダルク家族会への出席…。そして念願の、本人のダルクへの入所。
この中のどれか1つが抜けても、きっと今のような穏やかな日々は、私たち家族にも、私自身にも決して訪れなかったでしょう。
「お母さん!子どもをどうしたいの?」
『助けたい!!』
「だったら私の手の中に連れてきてくれないと、助けられないでしょ!さあ、家に帰ったら息子に言ってください。自立するか、死ぬか、ダルクへ行くか、自分で決めろ!と…」
「さあ!出来ますか。お父さん、お母さん」
『治るなら、やるしかないよ!お父さん!!』
と主人を促すのが精一杯の私でした。
カウンセリングを終えて帰る岩井さんの後姿に
『ぜったい助けてくれますか!?』
というと、後姿のまま右手をあげて「あいよー」と答えてくださった、あの情景が今も忘れられません。
子どもがおかしいと思い始めて、あれから4年…。平成12年、ゴールデンウイークの5月5日の早朝が始まりでした。
足をふらつかせて朝の新聞配達に出かけて行くのです。
「大丈夫なの?行けるの?」
と聞くと、
「大丈夫やてー」
と言いながらバイクに乗っていきました。それを本人の弟と見送りながら、“もう明日からは無理だ”と私の心の中で決めていました。
その少し前、お金のことで職場に電話があり、今まで聞いたことのない荒い言葉で答えてきたので、あわてて家に戻ると、
「パチンコに行くから10万円くれ。」
と言うのです。
「あんたおかしいんじゃないの?」
というと、たばこの火を私の手にすりつけてきました。
その日から、何がなんだかわからないまま、模索の日々が続きました。
ブロンを飲んでいることが分かり、なにか原因があると、いろいろ話を聞いたり、主人とかわるがわる息子の話し相手になったりしていたのですが、一向に良くならず、ブロンとウッドの数も増え、私たちの前でも平気で飲むようになりました。挙句の果てに、私たちはブロンとウッドの買い置きをする始末。今考えたら本当に信じられないことなのですが、あの頃の私たちは、息子に対する恐ろしさと、得体の知れない本人の状態に自分を忘れ、日々そのことだけに振り回されていたのです。
私が疲れて主人に
「会社を辞めて、一緒に付き合って欲しい!!」
とお願いする日も多々ありました。その願いを聞いてもらえなくて、主人を恨んだこともあります。でも、もしあのときに主人が会社を辞めていたら、今のような生活は出来なかったでしょうが…。
オートバイの事故、ケガ、車のパンクも気付かず、ゴトンゴトンと大きな音をして帰ってくることもありました。自分の車に乗って、ガードレールにぶつけ、意識が戻らず病院に運ばれても、やはりクスリは止められず、主人と精神病院を何件も何件も探し歩きました。大阪のクリニックへ行ったり、多治見の県立病院へ行ったり、またある時は主人と息子と岐阜の保健センターでカウンセリングを受けに行ったり…何をやってもダメでした。息子の症状もひどくなり、家の前を人が通ると、大きな声でどなったり、路上に出て車を止めたり…。
「もうダメだ!」と思い、先に主人と下見をし決めていた各務原の病院にお願いすると、「連れて来い」との事。安堵したのもつかの間、連れて行くのに困ったあげく、病院でもらってきていた睡眠薬をだまして飲ませ、やっとの思いで主人、弟、私の兄と私の5人で病院に連れ込みました。途中、目を覚まさないかと心配で気が気ではなかったのですが、よく眠っていてくれたので助かりました。主人が事前に何度か保健所や警察に相談に行っていたので、私たちの車の後ろには、警察と保健所の車2台がついてきていたそうです。病院に着くと警察も、保健所の方も見届けて帰ったそうですが、私が協力を要請したとき、“出来ない”と言われていたので、私はどうしてもお礼が言えなくて、主人が伝えたようでした。
病院について、本人に院長先生が確認をとって、保護室に主人と何人かの病院の方が入れるのを見届けました。様々な手続きをしている私の耳に、目が覚めてひどく起こって怒鳴っている息子の声がひびく度に、母としての自責の念が私を苦しめました。時間がたって、面会を許されたとき、鉄格子の隙間からみた息子の、あのピョンピョン飛び跳ねている姿は、生涯、私の中から消えることはないでしょう。ブロンは切れてくると、ひどくお腹が痛み、その痛さに耐えられず、ウサギのように飛び跳ねていたのです。「和昭?」と声をかけると、「はい」と振り向いたあの姿もあの声も忘れられません…。
私は、ただただクスリが憎かったです。
一度家に帰った主人を待つ間、ただぼんやりと抜け殻のように薄暗い待合室で遠くから聞こえる息子の怒鳴る声に耳を傾け、こぼれる涙の落ちるのもそのままに、時を忘れて何時間かいたようでしたが、迎えに来た主人に促されて家路へと車に乗りました。
何も語ることもなく家に帰ると、弟が息子を病院に連れて行ったときに寝かせて行った布団に包まって寝ている姿を見ていると、この子にまで切ない思いをさせてしまった自分が情けなくて、心の中でわびました。辛かったと思います。病院に足を入れたときも、帰っていいよと言ってもじっと帰ろうとしませんでした。
どんなときにも兄と弟の立場をきちんと守っている二人でしたし、そんな弟でしたから、その姿を見て、なぜか救われる思いもありました。
一度だけ、二人して取っ組み合いのけんかをしたことがあります。ある朝、息子が私に悪態をついたときに弟が見かねて「止めれよ!」と言ったのが気に入らなかったのか、息子が怒って取っ組み合いのけんかになったのです。止めようとしても止まらず、おどおどしているだけの私。息子の方から「分かったで止めよう」と言って止まったのですが、その後、二人して
「俺の気持ちがお前に分かるか!」
と息子が言えば、
「言ってくれな、俺だって分かるはずがないによ!」
と弟が泣きじゃくって答え、3人して泣きました。その二人の姿を見て、“ちっともおかしくなんかないじゃないか!りっぱな息子ばかりじゃないか…。どうして……。”と自分に向かうばかりでした。
息子が入院して2,3日して、病院から食事をあんまり食べないから、なにか本人の好きな食べ物を持ってくるよう電話があり、息子の好きな「すいとん」を作って持っていくと、
「この茶碗見覚えがある…。ありがとうと言っておいて。」
と言っていると、看護婦さんより聞いたとき、
「ああ、これで治る。あの子も楽になれる。」
と本気で思い、ただただ涙が出るばかりでした。
1ヶ月ぐらいして面会の日、先生に
「コーヒーくらいなら飲みに行ってもいいぞ」
と言われ、それが嬉しくて
「本当ですか?」
と大きな声で言ったほどでした。
久しぶりに会える正気の息子との楽しい時間でした。とても嬉しかったので、そのときの息子の飲んだココアも、お店も、語らいも、あの道も…よく覚えております。それから何度か外泊をしたりしながらも3ヶ月の入院生活を終え、退院する頃にはなぜか先生からの依頼で就職先も決まっていました。“もうこれで安心”と本気で思いました。でも、院長先生は“社会復帰より治療が先だ”と何度も私たちには言っておられました。
退院して働きに行き出して1ヶ月位たったときから、なにかまたおかしくなってきて、飲んでいるのを見つけたときは、
「どうして…。あんなに辛い思いをして、どうしてまた飲むの…。」
と二人して泣きました。それが『病気』だと気付けばまだしも、また病院に戻してしまいました。本人も素直に“行く”と言ってくれたので、またそれから2ヶ月入院です。その後、退院したのですが、今までより短期になり、家の中を壊したり、私たち親にも物をぶつけたりするようになりました。特に、母親の私にはみんながいなくなるのを待って、お金ほしさに攻撃してきました。
飲むと優しくなって、肩をもんでくれたりすることもしばしばありました。飲んでるときはよく話し、主人に歴史の話をしてもらいたくてよく話しかけていました。そんな時、真剣に相手になって語り合おうとしない主人に、愛情を感じられず、心の中で“どうして?どうして?なんで?狂っているからバカにするの?だって、自分の子なのに…。どうして?なんで?”と声にならない想いをぶつけていました。“狂っていたって我が子じゃないの…自分の子でしょ!?”と。
時々、ポケットに持っている薬を隠したりすることもありました。薬屋さんへ行く後をつけて行ってこともあります。悔しくて、製薬会社へ電話をしたこともあります。朝、パジャマ姿で薬屋さんに行ってにらみつけ、じっとたたずんでいて何も言わずにピシャリ!!と戸を閉めて帰ってきたこともありました。息子が職を探しに行った先で、
「あんたのことは全部分かっているから使えない。」
と言われたことを息子から聞き、くやしくて、
「息子のことをみんな分かっているそうだけど、あの子の苦しみも分かるんですか!!」
と、声を殺して訴えた日もありました。息子が惨めで、あわれで、親バカだと分からないくらいめくらになってしまっていたのでしょう。
家族に迷惑をかけていると知りつつ居づらくて、よく川へ魚釣りに行っていたのですが、迎えに行って遠くから涙して見ていたことも何度かあり、あまりにもその姿があわれに思えてなりませんでした。今思い出しても涙が止まりません。どうにもしてやれない悔しさと、母であることの情けなさをあれほど感じたことは、今までなかったでしょう。その悔しさが、主人に当たることになってしまい、きっと主人も辛かったと思います。ある夜、
「あの子と一緒に死ぬ。」
と私が言ったとき、主人が
「今までやってきたんだから。俺もやるからいっしょにやり直そう。」
と言ってくれたのを力に、またやり直しです。
その次の日、二人して病院に行き、また3度目の入院の時です。病院の先生が迎えに来てくださり、暴れてもいいように警察、保健所にもお願いして、家の周りを取り囲んでもらい、下の部屋で息子が下りて来るのを待ちました。私が嘘をついて、
「友達が来たよー。」
と言ったのです。下りてきてみんながいるのに腹を立て、暴れはしませんが、私の嘘に対して
「このやり方では行けない!」
「どうしても親を許せない!」
と言い張り、先生が
「今日のところはこのまま言うとおりにしよう。その代わり、明日絶対に来るんやぞ!」
と言ってくださると納得し、私に車の鍵を預け、
「明日の支度しといてよ!」
と言って、自分の部屋に戻りました。
次の日、本当に素直に病院へ主人と3人で行き、入院しました。その年の12月27日に、3度目の退院をして、すぐ私の実家でアルバイトをしましたが、病院の中でも止められず、他のガス、ガソリン、シンナー…等々。もうどうにもならなくなっていました。
“何かおかしい”“病院では治らない”と主人が気付き、名古屋の家族相談室を見つけてくれて、そこで岩松さんを知り、それもまた主人がコンタクトをとってくれ、静岡家族会につながりました。そして、そこのミーティングで
「岩井さんのカウンセリングを受けなさい。」
と先行く仲間が主人に教えてくださって、岩井さんにつながったのです。
そして、茨城ダルクを一度下見に行こうと、岩井さんとコンタクトを取り、初めての「茨城ダルク家族会」への出席となりました。あまびきに行く途中に、ダルクのスタッフの方と食事をしたときに、ダルクの河添さんに、
「僕の親なんて、逃げちゃいましたよ。」
と言われて、“えっ!この人たちも息子と同じだったの?”と言葉にならないものを感じました。信じられない思いと、“ああ、もしかして私の息子も…”という思いが巡って、食事ものどを通りませんでした。でも、喜びのほうが大きかったのは本当の気持ちです。だって、目の前に回復されて、普通に生きて見える、息子と〃病気の方がみえるのですから…。
今でも、私の心の中に焼き付いて離れない、息子の姿が2つあります。
1つは、昼と夜とがひっくり返っているので、私たちが眠れないと1人で夜中に近くの川に魚釣りに出かけて行く、あの後姿です。赤いジャンパーに黒い靴のペタペタという足音。竿を大事そうに持って、家の前の坂道を下っていくあの後姿は死んでも忘れないでしょう。
もう1つは、ダルクにつながるほんの数日前まで雇ってくれていた新聞配達の仕事が、クスリの作用で足が動かなくなって立てなくなって配れなくなった時。私と一緒に配達に行ったのですが、配達先が暗い下り坂の奥の家なので、私が戸惑っていると痛い足を引きずって、私のほうへ下りて来ようとするのです。やっとつかんだ仕事をとられたくない一心だったのでしょうか。たとえそれがクスリを買うためであっても、その一途な気持ちが私にはたまりませんでした。
高校を中退すると迷っている時の秋から新聞配達を始め、一日とかかさず、雨の日も、雪の日も、本当に念に1,2回の休みのほかは、ひたすら配り続けました。朝出かけるとき、
「母さん、ちょっと見て。空がきれいやよ…。」
と明け始めたうす紫の空を見て語りかけてくれた日も、大切に私の心の中にしまっております。
働き出してからも休むことなく、朝配達をしてから夜遅くまで残業をし、たくさんのお金をためました。仕事をやめてからも、一人アパート暮らしをしたときも、ずっとこの新聞配達は息子の支えだったのでしょう。その気持ちがありありと伝わるのですが、気持ちだけではこのクスリとの戦いには勝てませんでした。
何か一人で悩み、一人で苦しみ、それを打ち消すように空手を始め、たくさんのトロフィーや賞状ももらいました。何度か家を出たり、一人暮らしをしたり…。きっと息子なりにやり直せる道を探していたのでしょう。それを、そのひとかけらも理解し、気付いてやれなかった私を、今は愚かな母だったと、息子に伝えてやることが出来ます。
平成15年2月のある夜、疲れて寝ている私の頭の上で息子がたばこの灰を落としたのです。私は、
「あんたそれでも人間か!!」
と言って、家を出る決心をし、一人ビジネスホテルに泊まりました。星がとってもきれいだったのを覚えています。今思うと、それが私の底付きだったと思います。息子が許せませんでした。人間として…。
初めての家族会の帰り道。息子からの激しい電話のやりとりに、少し前から異常出血で体調が悪かった私は、少し手前の飯田市で病院に通うことを主人に話し、家を出ることを岩井さんに話し、「それでいい」と言われ、そのまま、その町のビジネスホテルに泊まることを、帰りの道々で決め実行しました。着の身着のままだったのですが、持っているお金を全部主人よりもらい、雨の中、1人で帰って行く主人を励まし、見送りました。今まで、めったに離れて暮らすこともなく、ましてやクスリづけの息子を抱えさせてしまうことを思うと、また別なつらさがありましたが、見送りながら神様に無事を祈りました。
弟が食事を作り、主人は仕事に行きながら息子のことをこなし、そうこうしているうちに、息子からの電話でダルクの本を読んだのか、
「母さん、兄ちゃんは依存症って病気なんやねえ。」
との声を聞き、
「そうやよ。病気なんやよ。それを治すにはダルクしかないんやよ。」
と必死に話しかけました。そのあと、2月28日に主人とダルクへ行くと決め、日々過ぎていく中でダルクにつながるための条件が2つありました。
1つは、薬局の借金を払うこと。もう1つは、サラ金の借金を返して欲しいということでした。岩井さんに相談の上、私は約束をしました。そして、薬局の借金は主人と返しに行き済ませました。サラ金については、岩井さんとのカウンセリングで「絶対払わないこと!」と約束していましたので、ダルクに入ってから払うと言い、払いませんでした。
ダルクへ行く当日の夕方、私に息子から電話が入り、
「布団を持っていってもいいか?」
とか、
「部屋は片付けたけど、ブロンのビンだけは後で片付けて欲しい。」
との事でした。了解し、
「母さんは行けないけど、気をつけて行くのやよ。」
と伝え、電話を切りました。私はその日、自宅近くの兄の家に戻っていましたので、主人との電話で息子の様子を伺っていました。28日の夜になって、主人がダルクに行く時間を少し遅くしたので、本人も辛くなってきたのか、主人にぐだぐだ言い出し(クスリが切れてきたのでしょう)、そのことを主人から聞いた私は、夜中の道を飛んで帰り、怒る息子に
「睡眠薬を飲んでいく?」
と言うと、
「飲む。」
と言うので、
「飲んだらすぐ乗ってくれんと、乗せてやれんよ。」
と言うと、
「いいよ。」
と言って、かばんを背負って、少し多めの量を飲んで乗ってくれました。今思えば、やっぱりそれが依存症の姿でしょうか。
ダルクに着くまでずっと眠ったままでいてくれたので、主人と一安心して、近くで7時になるのを待ち、ダルクに入りました。10〜20分、いろいろな手続きをし、「もう帰っていいです」と言われ、寝ている息子を仲間の方達が起こして、連れて行ってくださるのを見届けて家路に着きました。
長ーい、ながい道のりでした。本当に長かったです。私たちにとっては…。始まりから3年でしょうか…。
弟に、
「兄ちゃん、ダルクに入れたから。」
と電話をして、主人と二人しばし安堵感をかみしめながらの帰り道でした。息子がいなくなっても、すぐに元の生活に戻れるはずもなく、主人も私も疲れが出、弟も何か見る姿に空しいものがありました。でも、それは当たり前です。世にもあってはいけないことばかりの連続だし、訳の分からない初めてのことばかりでしたから…。
主人は、あまびきの帰りに体調を崩して、腸閉塞で中津川の1つ手前のインターから救急車で運ばれ、2週間の入院もありました。3回目の家族会の時の、あのあまびきの桜の花が、やっときれいだと感じられるようになるまでは、どなたにもみな、同じ思いでしょうが、「長かったなあ」と、しみじみ、本当にしみじみ思いました。主人との2人3脚がなかったら、そして、弟の声にならない寄り添いがなかったら、この日までたどりつけなかったでしょう。やはり私たちは、息子を囲んでやっぱりかけがえのない家族なんだと思い知らされました。ここまでたどりつけたことが、本当にうれしかったです。
多くの人の力を借りました。助けていただきました。大阪のクリニックに始まり、恵那保健所の田中さん、戸井田さん。西山クリニック。各務原病院の天野院長先生。多治見県病院。大久手病院。聖十字病院。岐阜保健センターの先生。ナラノンの仲間の方々。そして、各家族会の先行く仲間の方々。そして同時につながったたくさんの仲間の方々…。いつも大切な時に助けてくださいます。
そして、ダルクの皆様…。岩井さん……。たった一人の私の息子のために、どれだけの人とかかわり、どれだけの人と出逢ったか知れないこの何年間でした。
7月のフォーラムに息子に会うまでに、一度だけ
「サラ金の借金を払ってくれたか!」
という電話が本人からありました。そのときには、
「岩井さんにまかせてある。」
と言って、怒る息子を切り離しました。そして、7月のフォーラムの時、太鼓をたたいている本人を見て驚きました。その前から、私の目は息子の姿ばっかり探していました。すぐに息子と分かりましたが、様子のおかしさに涙することもありませんでした。母の直感でしょうか。でも、主人も弟も分かっていたようです。帰り際、どうしても「元気か?」と声をかけて帰りたくて、主人と弟の止めるのも聞かずに、息子を探し、声をかけると、
「ダルクのお金を使い込んでしまったから2000円欲しい。」
と言われ、
「それはあんたの問題だから、聞かなかったことにして帰るね。」
と伝え帰ろうとすると、怒ってきたのですが、それでも知らん振りして帰ろうとすると、
「弟と話すから。」
と言って、二人して離れて行きました。隠れているのを無理に探して、弟を巻き込んでいる申し訳なさに探したことを後悔し、帰りの車の中じっと黙り込んでいる弟に、
「まきこんでごめん。」
と謝ったのですが、その弟のつらい姿を見ていてどうにもならず、主人に
「きちんと話したいから。」
と車を止めてもらいました。口の重い弟から一言、一言、語りかけられて、返す言葉が見つかりませんでした。
「何から話せばいいの?」
と言われ、
「まず今日のこと、母さんが悪かった。ごめんね。何でもいいから、今自分の思っていることを話して欲しい。」
と言うと、
「まず今、自分が苦しいのは、昨日、今日と家族会で学んだことを思うと、自分が兄ちゃんにやったことは間違っている…。それがきちんと出来なかったことが自分に対して腹立たしい。父さんや母さんには何もない。だけど、父さんは今日のことどう思っとるの?」
「本当は俺が一番しっかりしなあかんのに、情けないと自分では思っとる。ごめんな、ダメな親父で…。」
と、父さんも少しずつ語りかけました。途中、私が口をはさむと、
「母さんは黙っとって。」
と弟が言うので、そのまま二人して道の話をしたり、何か食べようとかいう話しになっていて、サービスエリアでラーメンを食べ、ひたすら家路へと車を走らせました。弟が、
「俺が運転代わるわ。」
と言いましたが、主人も心配なのか、そのまま
「いいよ。俺がやってくよ。」
と言って、頑張ってくれました。
「やっぱり、あまびきは遠すぎるわ…。」
家に着くなり、弟の一言。一緒に家族会もこなしてくれて、本当に弟には頭の下がる2日間でした。
その帰りの中、弟が主人に言った言葉があります。
「兄ちゃんばっかり変われと言ったって、それはおかしいよ。父さんも、母さんも、俺も変わらんとねえ。俺も甘えとるとこあるから、家を出て1人暮らししなあかんと思っとるし…。」
と。たった2日間の家族会で、こんなにも成長し、何かを感じ取っている弟になぜかホッとし、私自身の学ぶ目の位置の近さを気付かされました。目の前の息子のことばっかり、そして主人の気に入らないところばっかり見ていて、もっと遠く、広く見て生きなきゃと。
7月のある日、私の仕事帰りの時間が遅いことで、主人との気持ちのズレができ、いつものように自分の部屋に閉じこもって、食事にも下りて来ない主人に
「また同じ依存者を作ってしまうのか!!」
と問いただしても返事のないのにどうにもならず、持っていた金槌で
「私を叩け!」
と手ににぎらせても、まだ黙っている主人を見ていられず、壁をその金槌で何度も何度も叩きました。それでも黙ったままの主人に、たまらない悲しさを感じ、
「ロープで首を吊るから見ていろ!」
と何度もやりましたが、それだけは止められました。でも、主人の姿に愛は伝わってきませんでした。そして、私が家を出ました。
小さな布団と、少しばかりの着替えを持ち、少しでも早くそのむなしさから逃げ出して、独りになりたくて…。依存症の息子の苦しい気持ちに、始めて「ああ、こうだったのか…。だから…。」と。どことなく車でさ迷い、声を出して泣き、泣きつかれていつの間にか眠っていて、気が付くと職場の中にいました。それからは、事務所の中で寝泊りし、仕事だけは続けました。仕事仲間も兄も、みんな息子のひどい時、何度か逃げてきて泊まってたのを知っていたので、そっと見守ってくれ、気持ちが日々楽になっていきました。一度、主人が迎えに来てくれたのですが、
「もし、お前がよかったら帰ってきて欲しい。」
という言葉に、
「父さん。それは違うよ。また私に決めさせるの?父さんはどうなの?それが聞きたいし、知りたいのよ私は。そうでなきゃ、これから一緒にやっていけないでしょ!」
と言うと、黙ったままになってしまい、その日は主人が1人で帰っていきました。それから幾日かが過ぎ、主人も来ることもなく過ぎていく中、アパートを探し始めた私に、弟が
「俺も一緒に出る。」
と言うのです。
「今のままでは何にも変わらないから。」
と。そして2人でアパートを決め、主人にそのことを話すと、主人は
「弟には何も…何も言えない。今まで辛い思いばかりさせてるから…。」
と。生活用品を買い、家賃を払い、すべて届けを済ませ、あまびきの家族会に行った、その日の継続グループの勉強の内容が、自分の家族のルーツをたどるお話でした。手を挙げて、私のルーツを聞いてもらえて、最後に先生が、
「Oさんがここに誰かを入れるとしたらどなたを?」
と聞かれ、とっさに父が浮かびました。
父ちゃんに逢いたいです。父ちゃんだったら今の私になんて答えてくれるかしら。どうやって助けてくれるかしら。よう頑張ったとほめてくれるかしら。」
と。涙を必死にこらえましたが、でもその後、すぐに
「本当は主人にそれをやって欲しいのに…。でも、もういいです。岩井さんが教えてくれたから…。どうして岩井さんはここにいないの?」
と、大きな声で話しました。
でも、本当に正直な気持ちそのままでした。不思議でした。
初めに、先生から
「今、Oさんが一番頑張っていること、思っていること、何かありますか?」
と聞かれ、
「大人の夫婦になりたい。」
と答えました。心の中に主人ともう一度やり直したい気持ちがいっぱいあったから、その正直な気持ちが「大人の夫婦になりたい」なんておかしなテーマになってしまったのでしょう。2人とも、とっくに大人になっていなくてはいけないはずなのに。それともう1つ。弟をアパートで暮らすことが、弟にまた甘え、依存症の息子にしてきたことをまた繰り返そうとしていることに少し気が付いていたのです。主人にしなければならない依存を弟に…。
あまびきの帰り道、名古屋で主人から電話が入り、
「どうだった?」
と聞かれ、
「とりあえず家に帰るから。」
と伝えて、その日は家に帰りました。そして、今日の家族会の2日間の出来事をゆっくりと話し、きちんと
「もう一度やり直そう。」
と、私から言いました。それが、私の本当に正直な気持ちだったからです。もう自分の中では決めていました。「何があっても父さんとやっていこう」と。
あまびきの力は本当にすごいです。自分を自分に戻してくれて、本当に正直に見つめる落ち着きをもらえる場所です。「正直な自分」なんて、普通の暮らしの中には見つけられる時間がないし、正直になりたくても、その前に素直になれないのですもの。あまびきは本当に不思議な所です。
弟にそのことを伝え、
「母さんがよければ、そいでいいけど。」
と言ってくれたので、
「浩司はどうする?」
と聞くと、
「1人で暮らしてみる。」
と言うので、裏切ったようで情けなかったけれど、そうさせてもらいました。
それから少しずつ、主人とも区切りをつけた生活をしようと、主人の給料で家の生活を保ち、私の給料で息子のダルクの寮費をまかなうことを決め、今でもそうしています。そうすれば、私が働けなくなった時、息子には息子の生活の仕方を考えてもらえば良いと勝手に思い、主人は主人の生き方をすればよいし、弟は弟の生活を守れば良いのだと願っていますから。でも、今日一日ですから、明日のことは今は考えていません。そして、11月4日。本人より電話があり、
「スリップしたけど、どうするのか決めろと言われている。」
「どうするの?」
と聞くと、
「もうやっていけない。」
と言うので、
「じゃあ、自分で考えて。」
と言って電話を切りました。それが、3ヶ月あまりの放浪の始まりです。
ダルクを出たその日の夜、ベロベロになって何度か電話がありました。
「母さんを信じなさい。もう一度ダルクへ行きなさい。」
と息子と2人して泣きながら話すのですが、
「いつも裏切られてばっかりで信じられん。」
と言い、通じるわけもありませんが必死でした。主人に電話を切るように促されて切ったのですが、そんな主人がひどく冷たく思えて憎かったです。それから何度か電話がかかってくるたび、本当はいけないと分かっていても、話さずにはいられませんでした。そして、そのときの会話が、後の突き放しの辛さに耐えられる心の支えとなりました。
「母さん、歯が痛いから救急車呼んでもいいか?そのお金は払ってくれるか?寒いのは我慢できるけど、歯の痛いのは我慢できんよ!」
との息子からの夜中の電話に、
「すぐ呼びなさい!!お金はいらんから。」
と答え、
「母さん。歯が痛いだけでは来てくれんとーっ。」
「警察を探しなさい!どこかにあるから、きっと!」
「わかった。歩いて行ってみるわ。足が痛いけど…。」
と泣きながら電話を切り、夜明けと共にコレクトコールが入り、
「母さん。おまわりさんにセデスもらって歯につめたで大丈夫やで。」
「これからどうするの?」
「クスリは止める気ないでよう。」
「ほんなら自分で考えて生きなさい!」
と答えたのを最後に、電話に出ませんでした。
ダルクを出て1ヶ月位して、
「もうダメやで。ダルクに電話して。」
とかかり、ヤッター!!と思い、住所を聞いてダルクに電話をすると、
「お母さんがそうやって何でもやってしまうから、本人が自立できない。」
と河添さんにさとされ、やむなく
「わかりました。」
と電話を切ったのですが、母心が一気に噴出してしまい、
「母さんが行くまで待ってなさい!」
と伝え、主人の答えを聞く事もせず、家を出て、駅から弟に、
「母さん行かずにおれんで行って来るで。」
と伝え、汽車に乗りました。途中、岩井さんから何度か電話が入っていましたが、それも振り切り名古屋駅まで行ったのですが、携帯の電池が切れてしまい、とりあえず降りて、コーヒー屋さんでお願いして充電してもらい、一度だけ岩井さんに電話をかけました。
「お母さん。行ってどうなるの?何のためにここまでやってきたの?突き放さないと、本人がこの先自分の力で生きていけないでしょ!帰れ!!」
『帰れない…。』
「帰れ!わかったね、帰りなさい!!」
「うん…。」
と言って泣きじゃくりながら答えたものの、辛くて辛くてどうにもなりませんでした。気を取り戻して息子に、「行けない」と伝えると、
「どうして?なんでよーっ。」
と怒り、
「どうしても行けんのよーっ」
と答え、電話を切りました。
素直に家に帰る気持ちになれず、ブラブラしていてふと、西山クリニックのことを思い出し、そこのミーティングに行こうと歩き出しました。忘れかけていた道を思い出し、たどり着き、ミーティングで今の切ない思いや出来事を話しました。涙で言葉にならない時もあったけど、きちんと今の気持ちが伝えられて、少し自分を取り戻すことができました。ミーティングを終えてから、その近くの教会の2階で1人ぼんやり時を過ごしました。持っていたパンとお茶を飲んで、少しずつ今日の自分を振り返り、岩井さんの「帰れ!!」の声が後から後から追いかけてきて、帰りの汽車に乗りました。中津川の駅に着き、誰にも逢いたくなくて、足早に家に戻り、カーテンを閉め、暗闇の中で夕食の支度を済ませてから、息子からかかるひっきりなしの電話に、「一度だけ」と決め、取りました。
「母さん。1つだけ教えて!兄ちゃんは親になったこともないで分からんけど、どうして引き返したの?」
と聞かれ、
「母さん、いつまでもあんたと生きて行けんからやに…。じゃあ、切るよ!」
と電話を切り、もう何も考えたくなくて睡眠薬を飲んで、弟の部屋に入って、そのまま眠り続けました。涙がとめどなく溢れて、とっても辛かったです。情けなかったです。逢いたかったです…本当は…。
一緒に行こうとしてくれなかった主人にさえ、何か冷たい風を感じもしました。それが正しいとすべて分かっているのに。
それから2ヶ月…
一度は戸田というところで新聞屋さんに雇ってもらって10日ほど働き、その店から
「お金を貸したから返してほしい。」
と電話がありましたが、主人に代わってもらい、今は突き放さなければならないことと、返せない理由を話し、分かっていただきました。
一度は自転車を盗んで乗っているところを警察に連れて行かれ、ダルクはいやだとまた外に出、
一度はお弁当を盗んでまた捕まり、ダルクはいやだと外に出、
一度はオートバイをいじっていて捕まり、またダルクはいやだと外に出…。
そんな放浪生活の中、捕まるたびに
「お母さん。一緒に暮らしてやったほうがいいよ。」
と警察の方にさとされることもありましたが、
「お世話になりました。」
と謝るばかりの私たちでした。息子の姿が思い出され、2、3日後で和良比警察の石井さんという方に、
「どんな格好をしていましたか?」と電話で聞くと、
「寒いから重ね着をしていましたよ。寒いから気をつけて行くように伝えましたよ。」
とのお話を聞き、今までに味わったことのない、我が子へのいとおしさと、切なさと、病気へのくやしさと、そうさせてしまった自分への苛立ちが一気に噴出して、涙が止まらず、家を飛び出して車に乗りました。
「誰か!あの子を助けてよーっ」
「母ちゃん、父ちゃん、和昭を助けてやってよーっ」
何度も何度も大きな声で思いっきり叫び、泣きました。苦しくて、息が止まりそうで、でも叫ばずにはいられなくて、どうにかなってしまいそうな自分も助けて欲しくて、父に、母に、お月様に、何度も何度も「助けて!」と叫びました。
泣き疲れて気が付くと、少し眠っていたのでしょう。もう夜中になっていました。主人から電話が入っていたのですが、出る気にはなれませんでした。「一番、今の気持ちを分かって欲しい人なのに」と思うと…。
そっと帰ると、弟が待っていてくれました。私が泣いていたのは、もう悟っていたらしく、心配していたので訳を話して、その夜はそのまま寝ました。「心配ばっかりかけてごめんね」と心の中であやまりました。でも、どうにもなりませんでした。本当に…。その後、息子が洋服を盗んで警察に捕まり、今度は許されずそのまま和良比署にお世話になっているとダルクから聞いたのですが…。
その少し前のある夜、本人のコレクトコールに迷ったけれど、月日がたっているので心配で、主人に出てもらったところ、
「ダルクの電話番号を教えてくれ。」
とのこと。主人が教えると、
「警察に売ったから、その前にダルクに逃げ込むで、そう伝えてくれ。」
と言い、電話を切ったそうです。私のことを恨んで言ったのでしょう。でも、もう泣くことも、涙をこぼすこともありませんでした。だって、もう屋根の下に入れてもらえたんですもの。あの寒空の下、野宿したり、凍えるような寒さに耐える必要がないのですから…。うれしくてしようがありませんでした。
朝日が昇ると
あの子をあっためてやって下さい と手を合わせ
夜、お月様が出れば
どうか、あの子を照らしてやって下さい と手を合わせ
雪が降れば 雪を恨み、
仏様に手を合わせ
雨が降ればくやしくて
また仏様に手を合わせました
母ちゃん守ってよ。あの子を守ってよ…と
この2つの手が、祈るためにだけあると思える程に…。
たとえ、警察であれ、留置所であれ、屋根の下で食事ももらえて、人に守られて眠れる。もう、弁当も盗まなくてすむのですから、ほっとして、初めてうれしくて泣きました。
その夜、以前入院していた各務原病院の院長先生から、
「息子が捕まっとるの、知っとるか?」
と電話をもらい、その旨を伝えると、
「そんならいい。」
と切られ。FAXで今までのことを伝えると、次の朝早く、また電話を下さり、
「先生は、あの子にはダルクも大切だし、突き放しも大切だと思うけれど、今は治療が必要だと思う。本人はまだ病気だと認めとらん気がする。どこか、ダルクの病院はないのか?」
「友部病院があります。」
というと、
「ああ、友部なら先生も昔研修に行ったことがあるで、そこでいいと思うけれど、あとはあんたら親が決めることや。」
と心配してくださり、心の底から
「ありがとうございました。」
とお礼をいいました。こんなにみんなで心配して、息子が大切なんだから、きっと回復があると信じたいのですが…。
あまびきの継続グループの途中、仲間の訃報が入り、岩井さんの目が私に向けられはしないかと、恐ろしくてどうにもならなかった日のことが思い出されます。
「明日はわが身であってもおかしくないんだよ!」
という岩井さんの言葉は、この3ヶ月間、どれだけ自分に言い聞かせ、消してはまた「そうならしょうがないか」と自分に問い、また消して、その繰り返しでした。でも、「自分の子でなくてよかった」と思うその自分がまたどうしようもなく、その場所に居た私は、そのことで涙がとまりませんでした。“その仲間のお母さんごめんなさい。どうぞ許してください”と。
岩井さん、本当にこの病気はくやしいですね。
思い返せば、私たち親としても、一人の人間としても、どんなに学ばせてもらって、どんなに多くの力をもらって、一生めぐり逢えることのない人たちにめぐり逢わせてもらえて…感謝です。
2月8日和良比所の石井さんより電話があり、
「親には迷惑ばかりかけて言えないのだけれど、たばこも買うお金もないので面会に来て欲しいと息子が言ってる。」
とお聞きしたのですが、
「今は私たちは何もしてやれない。今やったら、また逆戻りになってしまうからダルクにお願いします。」
ということをお話しすると、
「そうですね。よくわかりました。本人も子どもじゃないしね。でも、お母さん。今度本人がやったことは、薬のせいにして許されることではないですよ。」
「その通りです。あとはよろしくお願いします。」
そう伝えて、電話を切りました。その石井さんの、諭した言葉やお話の中に、何かあまびきの仲間に感じる導きが感じられ、とっても嬉しくありがたかったです。
お話の別れ際に、
「お母さん。息子さんは元気ですから。元気でいるから。大丈夫だから、心配しなくていいからね。」
と付け加えてくださったのが、また心の中にしっかりと宿っています。
神様、ありがとうございます。息子と石井さんのような方をめぐり逢わせて下さって、本当にありがとうございます。きっと、息子の心のどこかに残っていることでしょう。そう信じたいです。
その夜、岩井さんにその旨を伝えたところ、ダルクの方を行かせて下さるとのこと。お願いして、ただ安心して眠りました。
その5日後の2月13日。岩井さんの身元引き受けならよろしいとの事で、岩井さんに行っていただけて、息子は今、再び茨城ダルクで仲間の方々と一緒に暮らしているようです。
2月13日。AM11:00頃。岩井さんから、
「お母さん。預かりましたよー。」
と電話の声を聞いたときは、
「本当ですか?ありがとうございました…。」
と言うのが精一杯で、ただただ電話口で頭を何度も何度も下げました。
親の私たちが本当ならやらなければいけないことを、いくらそれが『突き放し』だとか、ダルクだから、仲間だからと言っても、どこの誰がそんなことを引き受けてくれるでしょうか。お金をつんだとて、どんなに頼んだとて、薬物依存症の息子に手を差し伸べてくれる人は、親ならまだしも、この世の中にどこを探してもいないでしょう。本当にそう思いました。ありがたく思いました。嬉しかったです。あのとき、突き放しは苦しかったけれど、切なかったけれど、やっていなかったらこの日は来なかったでしょう。
岩井さんが、いつも言われます。
「仲間が、自分の回復のために仲間を助ける。それが自ずと自分の回復につながる。私だってそうですよ。仲間がいるから、仲間に助けられるから回復し、使わなくていられるんですよ。」
だったら、私たちは何を…?そう考えたら、やはりあまびきへの旅しかない!私は自分に言い聞かせていますし、これから残された人生は、体の続く限り、このあまびきに旅したいと願っています。そして、いつもいつも新しいめぐり逢いを楽しみに、今までにめぐり逢えた仲間の方たちに支えられて旅をします。
私は一生、子供からひとり立ち出来ない母親で終わりそうだし、いつかまた一緒に生きていける日が来ると、今でも信じ、夢見ている共依存症のおろかな母ですから、
“めぐり逢えればそれはすばらしいこと”を信じ、
“めぐり逢えなければ、それは仕方のないこと”は心の片隅に残して、朝に夕に、この手を合わせて神様に祈り、ゆだねたいです。
これからのすべてを、果てしないこの旅を、主人と二人…。
近藤さんへ
ダルクを作ってくださり、本当にありがとうございます。
岩井さんへ
めぐり逢えて本当に嬉しいです。
神様 水谷先生をどうか連れて行かないで下さい。
先行く仲間の皆様 導きをありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
ダルクの仲間の皆様 ありがとうございます。
そして その道につなげてくれたお父さんへ ありがとう。
いつも寄り添ってくれる弟へ ありがとう。
そして 依存症で苦しむ息子へ
この多くの出逢いをありがとう…。
平成16年3月18日 S.O
果てしなく 遠い道のりだと思います
死ぬまで続くのだから 終わりはないでしょう
分かっていたって 進むしかない
今日一日 今日一日と どこまでも…
消しゴムで消せるものなら消してやりたい
戻せるものなら戻してやりたい
それを 共依存というなら それでもいい
叱られてもいい 怒られてもいい
でも もう道は決まっている
たった一本の道しかないのですから…
そういう運命の中で
私たち親子も 私たち家族も 結ばれて生まれてきたのでしょう
せつないです くやしいです 申し訳ないです
命捨てても 何を捨てても もう戻れません
もう 神様にゆだねるより生きる道はなく
それを知ってしまいましたから
遠いその日まで たんたんと生きていきましょう
でも やっぱりくやしいです
“朝の陽に
合わせて祈る 二つの手
ぬくもりもらいて
今日一日 とつぶやく…”