『突き放し』
小西憲
こんにちは。新潟家族会の小西と申します。新潟の中越地震・震源地、川口から来ました。阪神大震災の次に、危ないところはどこかと言われたら、大体、名古屋か静岡かなと私は感じていたのですが、実は自分のところに来ました。あの時は、本当に多くの皆さんから、ご援助・ご声援をいただいて、ありがとうございました。とにかく、あんな経験っていうのはテレビの中の出来事なんですね。例えば、避難所生活とか、自衛隊の炊き出しとか。そういうことが、全部、テレビの中の出来事だったんです。私には、そのテレビの中の出来事を経験したことが2つあります。1つはその中越地震です。もう1つは自分の息子のことです。
今からもう10年ほど前、自分の息子は覚醒剤に手を出しました。地元の高校を卒業して、東京の専門学校に行きました。専門学校に行って1年半ぐらいですかね。何かおかしいです。連絡を取ろうとしても取れないし、家賃、電気、ガス、水道、電話代の滞納があり、何かおかしいです。私たちは本人が覚醒剤をやっているなんて全然知りませんから、とにかく東京に行って、どんな風になっているのだろうと、本人に問いただしてみたけれど、解りませんでした。まさか覚醒剤をやっているなんて、その時は思わなかったです。生活が荒れてきていたので、どうしようもなく、本人を田舎に連れてきて、それで家で見ていました。
そこで、本人は「自分はうつ病だ」ということで、地元の大きな精神科に1年ほど通っていました。その精神科の大病院から処方薬をいっぱいもらって来るんですよ。主治医からは、本人が「薬物依存症だ」なんてことは一言もいわないので、とにかくうつ病を治すような治療をしていたのでしょう。まあ、医師は知っていたのかもしれないですけれども、守秘義務で私たち夫婦は全く解りませんでした。とにかく、全面的に医師を信頼し、疑うようなことはなかったのです。しかしながら本人は一向によくならず、ますます悪くなっていくような感じでした。今から考えると本人は、医師から出されていたその処方薬に依存して来たような感じです。
我々は、大きな病院だと信用して、全部、医師にお任せしてやっているんですけれども、どんどん、どんどん悪い方向に来て。結局、その大病院の精神科の先生もさじを投げて、他の精神科の病院を紹介してくれました。そして、そこで初めて新しい主治医から、
「お宅の息子さんは、覚醒剤をやっていた。」初めて聞かされました。
そして、「薬物依存症だ。」と言われました。
それは私ではなくて、女房が病院に連れて行って、言われたのですけれども、病院から帰ってきて、夕飯のときに、突然涙を流して言ったのでした。
「息子が、東京で覚醒剤をやっていたんだって。薬物依存症なんだって。」
「覚醒剤」まさにテレビの中の出来事でした。私は、薬物依存症がどんな病気なのか、その時は全然解りませんでした。とにかく、その精神病院に3ヶ月の予定で入院することになりましたので、退院すれば治るものだと、私は思っていました。ところが、その病院を本人は1ヶ月ぐらいで帰ってきました。結局仕方がないと思って、他の病院を探し入院するけれど、そこでもやっぱり1ヶ月ぐらいで強制退院になったりします。とにかく、自分で最後まできちっと治そうなんて気は全くないんです。
どうしたらいいのかと思って、いろいろインターネットで“薬物依存症”を調べました。そこで“ダルク”というのを初めて知り、藤岡アパリに相談に行きました。そこで、「渋谷で、ダルクの15周年記念フォーラムがあるから、そこに行ってみないか。」と言われ、早速フォーラムに行きました。そのフォーラムで、私たちはダルクの仲間の太鼓の演奏を見たのですが、あるお母さんが、その演奏を見て涙を流している姿を、後ろから見たんです。おそらく、そのお母さんは自分の息子が太鼓を叩いているのを見て、良くぞここまで回復してくれたという、嬉し涙だろうと思います。この姿を見て私たちは、「ひょっとしたら自分の息子も回復できるのでは」と思いました。そして、そこで買った本の中に、茨城ダルクの家族会があるということを知って、それから夫婦で通うようになりました。
それからも色々なことがありました。病院も入退院を繰り返し、茨城ダルクにやっと繋がったと思ったら、4泊5日で逃げ出し、3ヶ月行方不明になって、ある日突然、神奈川県で自殺未遂を図ったり、入院した病院を脱走したりと、不安定な日々でした。それから二箇所目の磐梯ダルクに繋がったのですが、そこでも、じっとしていられなく、何度も家に帰ってきました。それまで茨城ダルクの家族会に行って、岩井さんに、「突き放せ、突き放せ」って、何回も言われ、頭の中では解っているのですが、なかなか出来ませんでした。初めのころ、女房なんかは「よく帰ってきたね。」と「共依存」そのものという感じで、ニコニコして迎い入れていました。
磐梯ダルクは、本人が帰りたいというと、施設長の林さんが「今、施設を出ました。」って、ちゃんと教えてくれます。
今から、4~5年前のことですけど、出ましたという林さんの連絡で私たち夫婦は川口の駅で、本人が来るのを待っていました。2月の寒ーい夜でした。新潟の2月っていうと、夜は氷点下まで下がります。案の定、大きな荷物を抱えて改札から出てきました。その駅の待合室で一生懸命説得しました。本当に寒い夜でした。
「とにかく、今からダルクに帰れ。帰るのであれば、今すぐにでも磐梯ダルクまで送っていくから。とにかく帰ってくれないか。」
しかしながら、本人は
「あんなところは絶対に帰らない。」
「とにかく家に帰らせてくれ。もし、家に入れてくれないのだったら、俺これから自殺するから。」と言うのです。
私たち夫婦は考えました。ここで家に入れなければ、本当に自殺をするかもしれないが、入れてしまえば、又、同じことの繰り返しになる。
私たち夫婦は覚悟を決めました。
「あなたの命だから、あなたの好きにしてください。」
と言って、女房と私は、家に帰ってきました。しかしながら、女房と2人でベッドの中に入ったんですけれども、女房はやっぱりものすごく心配なって、もう一度駅に行って本人に説得を試みたのですが、本人は「絶対にダルクに帰らない」の一点張り。それで、女房も諦めて、車を走らせたのですけれど、車のボックスの中に、携帯カイロが1つありました。それをまた駅まで戻って、携帯カイロを1つ渡したことを後で知りました。母親として今、自分の息子にしてやれることは、携帯カイロを渡すことしか出来ない、本当に残念だったろうと思います。
私たちも自分の子どもですから、暖かい布団の中で寝かせてあげたいですよ。本当に。でも、それをやってしまうと、同じことの繰り返しになる。私たちにとってその時が初めての突き放しだったんです。
またそれからも色々ありました、ホームレスをやって、また家にも帰ってきたのですけれども、その時はパトカーを呼んで、警察に保護してもらいました。自宅にパトカーが来たものですから、近所に全部知れて、世間体を気にしては、地域生活することが出来なくなりましたが、かえってすっきりしました。
本人は、ダルクにつながって8年ほどになりますが、今は日本ダルクで1年半のクリーンを続けています。今までは、毎年、毎年何か事を起こし、私たち夫婦は尻拭いに追われていました。初めて去年1年間は何事もありませんでした。本当に、何もないという事はありがたいですね。
うちの子は、統合失調症という診断を受けました。この診断が下って、やはり将来が心配です。居場所です。いろんな統合失調症の施設があるかと思うのですが、薬物依存症の子が普通の統合失調症の施設に行って、他人とうまくやっていけるのか、スリップしたらそれもステップとして認めてくれるのかとか、心配したらきりがありません。薬物依存症から統合失調症の診断が下り、社会に出れなくなった人たちの受け入れ施設が必要になってきます。岩井さんもこれらの施設の必要性を力説していますが、私たち家族の資金だけで、建設、運営することは不可能です。やはり今のダルクと家族会が主体になって、これらの人の受け皿作りを国に対して訴えていく必要があるのではないでしょうか。
これから私たちも高齢化しますし、本人も高齢化しますし、私たちにできることと言ったら、やっぱり私たち一人一人が、「薬物依存症は病気である」ということを、社会に対して、家族一人一人がアピールしていくことが必要だと、私は思っています。家族が一致団結して動かなければ、何も変わりません。だから皆さん、本当に自分ができること、何でもいいです。フォーラムに沢山の人が参加する、これも国に訴える一つの方法です。皆さんのご協力をよろしくお願いします。ありがとうございました。
全国薬物依存症者家族連合会 2004年-