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『あるがままに』

​中田満里子

 

人は誰でも、その生き方を問われる時があるのだと思う。そのことに気付かずに、なんだかんだと泣いて一生を送る人が多い中、私は薬物ということで、法的にもいけないことで、何よりも命を削る息子の姿に、平常心ではいられなかった。幸せなことに変えざるを得なかった。
 そして今、家族会という居場所を得て、こんなにも穏やかで、静かに暮らせる日々が訪れるなんて思いもしないことでした。

 平成10年の4月も末のこと、それは突然の警察からの電話でした。
「ゲームセンターでシンナーを吸引していた息子さんを補導したので、引取りに来てください。」
それが始まりでした。
 そんなことがあった6月上旬の朝のことでした。何人かの刑事さんが家にやってきて、
「シンナーを盗みに入って捕まった2人の口から、お宅の息子さんの名前があがったので、事情を聞きたい。」
とのこと。そして、その日の午後には「逮捕になった」との連絡を受けました。
本当にショックでした。今までよかれとしてきたことの全てを否定され、「貴方のせいで、こうなった」と言われたようで、初めて仕事も出来なくなりました。誰とも顔を合わせたくなかったし、声も聞きたくなくて、用事もないのに出掛けたり、でも、どこにも自分の居場所が見つからなかった。
家裁の調停を1週間後に控えて、鑑別所での2度目の面会から帰る車の中で、「このまま息子を預かってもらえたらどんなに楽だろう」と思いました。救急車やパトカー、電話の音にも息子の心配をしなくて済むという、何年ぶりかで味わった安らいだ静かな時間でした。それでも、家裁の調停を終え、息子を連れ帰るときには、「もうこれで落ちるところまで落ちたんだから、これからは這い上がるだけ。シンナーも1ヶ月も止めていたんだから、もう大丈夫。」そう信じていました。そもそも、このときも「薬物の問題で」なんて思いもしなかった。一般に言う「非行」だと、それくらいの認識しかありませんでした。だからこのときには、この年の暮れから薬をめぐって自分自身どうにもならないほど「共依存」に拍車をかけて行くことになるなんて、思いもしないことでした。
その後も、変わらずシンナーを使い続けていた息子。そんな息子に全神経を向けて、昼夜の区別もなく先取りの不安を抱え込み、その不安を日々育てていく私。なにをどうしていいのか、どうしたいのか、全く分からなくなっていました。真暗な闇の中で、蟻地獄に落ちたような毎日。朝を迎えることが本当に苦しかった。昨日より辛い今日が待っていた。薬を飲んでも眠れない、そんな状態の中で、柱の角に頭をぶつけて、毎日死ぬことを思いながら生きていました。
それでも「息子が薬を止めないのではなく、止めたくても止められないんだ」と気付いたとき、「こんなことをしている場合じゃない。一刻も早く救ってくれるところを見つけないと、息子を失うことになるかもしれない。」そんな時、ラジオ放送を通じてダルクの存在を知り、切羽詰った思いで家族会への出席が始まりました。
はじめて会場の入り口に立ったとき、「息子も警察だ、鑑別所だと落ちたけれど、私自身も薬物の問題を抱え込んだ人たちの会に出席しなければならないほど落ちたんだ」と、なんとも言えない思いに愕然としました。ビギナー教室から始まって、次から次へと部屋の移動。どこに行っても身の置き所がなくて、心細い思いをしました。クローズミーティングの時、回ってきたマイクで、
「私は皆さんの言っていることが分かりません!今までどこへ行っても逆のことを言われてきました。でも、『12の助言』の中で、“本人の尻拭いはしない”と言うことは、薬をしているとか、していないとかを別にしても、当たり前のことかと思うと、そんなに難しいことではないのかと思います。これから一緒に学んで行きたいと思いますので、よろしくお願いします。」
それが、スタートの言葉でした。
 特効薬を求めて、すがりついたダルクは、自分が思っていたようなところではなかったし、家族会でもなにを学んでいるのかも分からない中、「この人たちと自分は違って欲しい」と願いました。でも、自分の思いや、経験してきたことを誰に話して回っても、
「そうだよね。」
「そうなんだよね。」
と、答えが返ってきたんです。「あなたと私は違うのに、どうして私の気持ちがわかるの?」って、そんな私がいました。でも、そんなやり取りの中から、徐々に「この人たちは私の抱えてきた苦しみ、悲しみを本当に分かってくれている。私も仲間なんだ」って認めるようになりました。

 家族会にたくさんのものを持って出席しました。その中のひとつに、「人はこの世に生まれてきたこと事態、罰を受けたこと」と思っていました。「だから、次から次へと起こる苦しみに、ただ耐えながら生きて行くことが人生だ」と。でも、その考え方では、生まれてきた疑問の答えが分からなかった。もし、今あることの全てが必要なことで意味のあることであるならば、世界総人口60億以上もの人がいる中で、一番近しい関係で巡り会った息子は、私にとってどんな意味があるのだろう?そんなことを考えた時、以前主人と出かけたコンサートで心に留まった言葉があったことを思い出しました。
「人は幸せになるために生まれてきたんだと思う」
その言葉を、自分の中の疑問に重ねてみた時、バラバラだった自分の中のパズルが、一枚の絵になった気がしました。「息子は私の元に、幸せを持って生まれてきたんだ!」と。息子にクスリの問題が起こる前は、泣いたことがなかったのか?そんなことはなかった。いろんなことで泣いたり、人を恨んだり…。でもそのときは、「自分の考えを変えよう」なんて思いもしないことでした。でも、そのことが私にとってどうしても必要なことだったんだ。そのことに気付かせるために、神様が私につかわしてくれた大切な命なんだと。そのことに気付いたとき、「ほぉー」って振り向いた、「そんなことも分からなかったのか?」と言っている神様を感じられました。それと同時に、どんなチャンスを与えられても、ただ泣くばかりだった自分を思ったとき、深いため息をついていたであろう、神様を思いました。その気付きがただ嬉しくて、そのことを素直に喜べる私って、バカで正直で、子どもみたいに可愛いと思えた。そして、
「そんな自分が好きだ。」
って、先行く仲間に話したとき、こう言ってくれたんです。
「自分を許せない人が、他人を許すことは出来ない。」
そんな仲間の言葉が嬉しかった。でも、そのすぐ後で、「では息子にとって私の存在はどんな意味があるのだろう?」と、そう思った瞬間から、また苦しくて、泣けて、泣けて、また2、3日経って、泣きながら思いました。「こんなに悲しいのなら、本気で泣いてみよう」と。そう思ったら涙が止まって、そのとき思ったんです。「今分からないことは、無理に知ろうとしなくていい。そのことを本気で知りたいと願い、その答えが私に必要なことなら、神様は必ず教えてくれるはずだから」と。そのとき、初めて神様に自分の問題を委ねることが出来ました。その気付きがあってからは、テレビを見ていても、ラジオを聴いていても、日常の会話の中からでも、今まで何を聞いていたのかと思うほど、いろんな言葉が飛び込んでくるようになりました。野の花や、電線に止まった小鳥さえも、何かを教えてくれているんだろうと感じられるようになったんです。「6回は必ず家族会に通い続けろ」と言われた、ちょうど半年を過ぎる頃に頂いた気付きでした。そして、その気付きをきっかけに、私の中で家族会に出席していることが誇りに変わっていきました。
 そして、私はお世話になっている保護司にこんな思いを伝えた。
「私は駄目な母親だったかもしれない。けれど、していいことと悪いことぐらいは教えてきた。だから、これから先、警察のお世話になることはないと思います。それでも、もしもそのようなことになる時は、クスリのせいだと思います。そのことは、私にはどうすることも出来ません。」と。

 突き放し…。今にしてみれば、それを先にしたのは息子の方でした。いつになっても子離れできない私に、見切りをつけたのでしょう。
 私が家族会に繋がったときには、息子は既に家を出ていて、お蔭様で毎日の対応に振り回されることなく、冷静に考える時間を得ることが出来ました。息子がいないことで、自分の中に大きな穴が開いて、その穴を覗いたときに、“常識人”と信じていた自分自身の“狂気”が見えた。
 ドタバタ劇を繰り広げていた頃、息子から浴びせられた、
「俺はお母さんのオモチャじゃない。」
の意味に気付いたんです。自分のしてきた過ちを主人に伝え、謝罪した時のことです。
「そのときは良かれと思ってしてきたことだから、仕方のないことだ。」
そういってくれた主人の言葉に、ただ申し訳なく、そしてどこかホッとした気持ちになりました。そして、時に主人がそのことを指摘してくれていたことにやっと気付きました。いつも正しい私だと思っていたから。そんな時、腹を立てたり、2人で居ることの寂しさを感じたり、主人の大きな愛がなかったら、今この幸せはなかったと思うと、感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとう。

 私からの突き放しは、初めての家族会参加から1年後のことでした。突然、家に戻ってきて、
「帰りたい。」
と言う息子。本当は嬉しかったし、一緒に暮らしたかった。でも、分からなかった。それまで、自分のやってきた関わり方が、間違いだったことは分かったけれど、だからといって、これからどう関わっていけばよいのか、そのことがたかが1年くらいの勉強では分からなかったんです。その思いを、息子に正直に話して、
「今のままで一緒に暮らし始めたら、またお前のことをオモチャにするよ。それが辛くて出て行ったんでしょう。」
いつも子どもから「よい母親」だと思われたかった自分を止めた瞬間でした。それに対し、息子は、
「自分のことをいつも待っていてくれる家族がいると思っていた。けれど、自分の思っていたお母さんじゃなかった。もうどこにも帰れるこ所がないのに…。」
出て行く息子の後姿も、苦しくて、辛くて見られませんでした。そのとき思った。「家族会になんか出ていなければ、こんな思いなんてしなくて済んだかもしれないのに。」それと同時に、「こんな辛い思いは、仲間がいなければ乗り越えられない!」と。

 それから半年後、息子は網膜剥離で片目の視力を失いました。
病院に向かう電車を待つ駅のホームで、自分の片目をそっと覆ってみた。「こんな風にしか見えないんだ」と思ったら、涙が流れて止まりませんでした。「私はこのことで何を知ればいいの?」「このことに何の意味があるの?」「早くその答えに気付かなければ、クスリの問題が起きたように、また何か起こるかもしれない」初めて神様を恐れて泣いた。泣いたけれど答えは分からなかった。それでも思えたことは、「私に神様がいるように、このことも息子の神様がしたこと。必ず幸せに繋がっているから大丈夫。今のこの悲しさは、繋がった先の幸せがまだ見えないからだ。」
そのときの思いは、息子を最初に受け入れた時に伝えました。
「片目の視力を失ったことは、とても悲しい。でも、片目だけで許してもらえた。まして、命まで失うことにならなかったことに、私は感謝している。」

 その2ヵ月後、息子自身、男の子を授かることになりました。
夜が白々と明けるころ、静かな待合室に産声が響いた。初孫の誕生に、言い様のない感動を覚えて涙した。息子も同じように泣いていました。そんな息子に、
「子どもが出来たから親じゃないんだよ。この子を育てさせてもらって、これから親になって行くんだよ。」
家に送ってもらう車の中で、
「家族会から帰っての徹夜だったので辛かったけれど、付き添わせてもらって嬉しかった。」
と伝えた時、
「まだ行っていたんだ。」
「あなたの為じゃなくて、今は自分のためだから。」
「この前、テレビでもやっていたけれど、親が何をしたって、薬は本人の問題だから。」
「今の私ならそのことがよく分かるけれど、今日のお前のように、お母さんも貴方が生まれたとき、嬉しくて泣けたよ。でも気付いたら、その子が薬をしていて、私に命を削って見せたんでしょう。そのとき、お母さんは平常心ではいられなかった。」
つい先ほど生まれてきた子どもが、こんな会話の出来る機会を与えてくれました。「ああ、この子も息子と同じように、幸せを持って生まれてきたんだ」と感じられました。

 そんな出来事の一つひとつを、頂いた気付きの全てを、私は娘に伝え続けてきました。
「そんな話など聞きたくない。」
と言った娘もいた。それでも機会ある度に話し伝えました。そして、伝えながら見えてきたものがありました。
 息子との関係だけがどうにかなればと思っていた。でも、小学校5年生の頃の娘が、
「なんでお兄ちゃんばっかり?」
と言ったことがありました。自分自身が見えていなかった私たちは、
「あなたはしっかりしているから、今お兄ちゃんをどうにか助けてあげなければ。」
と言っていたんです。5年生の娘に分かることが、私には分からなかった。
 小さいときから、どこへ出しても「しっかりした子」と誰からも、そんな評価がついて回る娘。私もそう思っていました。自立心が強く、手の掛からない、安心していられる子だった。一点を除いては。オムツが取れたときは、昼も夜も一度に取れたのに、1ヶ月に何回かのオネショに始まり、あっという間に昼夜を問わず、それは毎日のことになりました。何度も叩いたり、脅したりしてみたけれど、小学生になっても止まりませんでした。上級生になるにしたがって、宿泊学習などもあることを心配して、何度か通院してみたけれど、どこにも異常もなく、薬を出してくれるだけ。なにか違うと感じたとき、
「通院を止めたい。」
と医者に相談しました。
「いいですよ。嫁に行くまでに治してあげればいいんですよ。」
と言われたことで、思い詰めていたものが楽になりました。そして、そのことを境に、オネショが止まり始めました。
 そんな娘が、高校生になった頃から、私に対し抱えてきた不満を、少しずつぶつけ始めるようになりました。一つひとつのことに言い訳をしないで謝ることを繰り返しているうちに、自分の思いを語り始めました。
「私は、その子達が憎らしくて、そして羨ましかった。私は言いたいことも、やりたいことも、こんなに我慢しているのに。」
しっかりした良い子を一生懸命演じていた娘の正直な思いでした。
 娘が高校3年生の時のことです。リストカットをしていたことに気付いたんです。正直に自分の思いも話すようになっていたし、私のことが好きだと、私たち夫婦が理想だとも言ってくれていた。学校での出来事も、悩み事もよく話してくれていたし、同じ年頃の子を持った親子の中でも、よい関係でいるという自信もあったので、思いも寄らないことでした。それでも、私はその行為を咎めることも「止めて」と言うこともしませんでした。そのことを、思いを伝えるきっかけにして、
「あなたも、お兄ちゃんと根っこは同じ病気なんだよ。ただ出口が違っただけ。」
そして、続けて
「まだ家の中に何か原因があるのかなぁー?」
と。娘の言うように、確かに学校やバイト先での人間関係でいろいろあったことは知っていたけれど、今にして思えば、「家族会に通っているのは自分自身のため」と話す私の中に、「やっぱりお兄ちゃんのため」と感じさせる何かがあったのかもしれない。
「今、家の中で何もいやなことないよ。」
って言ってくれたのは、娘の優しさだったのかと思う。そんなことから、いつまでもオネショの止まらなかった娘を思った。生まれてきたときから、私の愛情の全てが息子に向けられていると感じてきたんだろう。自分の気持ちをうまく表現することが出来ずに、粗相をすることでしか私の関心を自分に向ける術を知らなかったのだと思います。その結果、脅かされたり、叩かれたりすることでしか私の愛情を感じることが出来なかったのでしょう。そう思うと、自分のしてきたことの罪の深さを重く感じます。出来ることなら、あの頃に戻って、抱きしめてあげたい!

 家族会に初めて参加した夜のことです。明かりを消して、床に就いたとき、先行く仲間が言ってくれたんです。
「人よりも辛い経験をした分だけ、幸せになりましょう。」
その言葉をきっかけに、精一杯の虚勢が、涙になって流れました。そのときから3年が過ぎようとしている頃のことです。その頃、子どもを亡くした友人がいて、問題は違っていたけれど、お互いに励まし合っていました。その友人に宛てた手紙に、「自分が幸せだと思えるときは、過去の不幸せが笑えるのに、今が不幸だと思えるときには、過去の幸せに押し潰される自分がいる」と綴りました。
 息子が警察のお世話になったとき、主人と出かけた先で、小さな子どもを連れた親子を見て、
「私たちもあんな時があったね。あれから何を間違えてきたんだろう。」
と。ちょうどそのときの思いを振り返り、友人に宛てて書いたものでした。
 振り返ったとき、「幸せだった」なんて思えることが、そのときそんなに幸せだったのか考えてみた時、気が付いたんです。「当たり前のこと」と思っていたんだって。幸せのための条件なんてないんだ。目の前の問題をどう考えるか?その考え方次第なんだ。そう考えた時、それまで学んできた中で気付いたもの全てが繋がって見えてきました。「今日一日、起こることの全てが自分にとって必要な、意味のあること。だから、たとえ今、どんなに苦しく悲しいことでも、未来は必ず幸せにつながって行くから、何も恐れることはない。だから、与えられた今日一日を喜んで生きていけばいい。」生かされている自分を初めて感じることが出来ました。そして、そのときまでの全てのことが“感謝”に変わりました。
 「神様に見捨てられた」と思ってきた出来事も、実は私に期待をしていてくれたこと。きっと私が生まれたときから神様の計画の中にあったのでしょう。幸せになるためのいくつかのピンチをチャンスに変えることが出来なかったときのために、「息子もクスリも、私の人生が幸せになれるように掛けてくれた保険だったんだ」。そして、「世の中ってこんな風に出来ているんだ」って思えたとき、私の躰の中を、天に向かって真っ直ぐに伸びて行く何かを感じました。初めて味わった快感。クスリを使ったと同じ快感ではないかと聞いたとき、こんなに気持ちの良いものなら、止められなくて当然と思ったし、私もやってみたいと本気で思いました。その幸福感でただ泣けたときに、「よくここまで来たね」って一緒に泣いてくれた神様を感じました。
 もう大丈夫。幸せに生きていくための方程式を手に入れたようで嬉しかった。もし、これから先、平常心でいられるか、いられないかは、自分の中の神様を信じきれるか、見失うか、それだけだって本気で思えた。
 それからたまらない虚しさを感じるようになりました。本当に私の気付いた通りならば、これから先も神様の手の上で、神様の思いのままに、生かされていくしかないのかと思ったときから。仲間に言われた。「高慢になっている」と。でも、仲間の言葉にしっくりこなかった。
 こんな気付きがあってのミーティングの中で、
「3年も学んできた、先行く仲間の自分だからという高慢さが、自分の正直さの口を塞ぐことがあるのではないか?」
と話しました。そして今回、その言葉を裏付けるかのような、神様のお試しとも思える出来事がありました。仲間の中にいることがいつも心地よかったのに、息子と生活を共にし始めたときから、その暮らしの中には苦しさの何もないのに、仲間の前に立ったとき、逆に苦しさを抱え始めるようになりました。
「仲間に対して後ろめたい。」
と言ったきり、自分の正直さに蓋をしてしまったんです。
「何年も勉強してきたあなたがなぜ?」と言われても、逆に
「何年も勉強してきた、今の私だから。」
としか理由付けが出来なかった。家族会の中で、突き放し、突き放しと教わってきた中で、独り受け入れを始めてしまったことの後ろめたさに、仲間から絶対的な自信を持って、指摘された時(私はその時、非難されたと感じた)、自分の中の神様も、幸せになるための方程式も、自分自身も見失ってしまった。これが家族のスリップなのでしょうか?何をどう、どこから考えてよいのか、糸口さえも分からなくなって、ただ苦しかった。
「私はこうなるように学んできたから、一緒に暮らしていると言ってみたら?」
と、他の仲間から言われても、
「そんなこと言えない!だって、私自身どこまで回復できているのか分からない。」
そんな自信のない私がいたんです。
 何年か前に、仲間の話に腹を立てて、言った言葉が思い出された。
「一緒に暮らすとか、暮らさないとかは別にして、私はいつか本人とも心を通わせたいから、家族会に通い続けている。」
そして今、それが出来るようになったから、
「私、息子と暮らしています。」
と言える。

 もしかしたら、この先またクスリに手を出す息子がいるかもしれないし、その事で苦しむ私になるのかもしれない。お互いに病気持ち同士のことだから、そのときは仕切りなおせばいいこと。起こるかどうかは分からない先取りの不安で、今を生きることはもう出来ない。
 神様を見失ったときから、1ヶ月近くが経ったけれど、仲間に投げた思いを取り消すつもりもないし、仲間も同じであって欲しい。これも神様の計画したこと。時を選んで、仲間という道具を使って、私にお試しを与えてくれました。与えられた時には、パニクッてスリップをしたけれど、それも気付きのチャンスに変えることが出来たから、お互い許しあうことではなく、感謝することだと思います。本当にありがとう。
 「正直」の意味をまた1つ知った。生き方を変えて回復なんて、そんな簡単にカッコよくなんて出来ない!「あるがままの私が好き。」でも、その私が自身に嘘をつくこともあるし、上手に騙すこともある。自分の欠点は、見えないところもあるが、気付かないふりもする。そんな内にある「正直さ」を認め、受け入れて、変えていくことが出来たら、今よりもっと穏やかに生きていかれるようになるのだろう。それはもしかしたら、今「全てのことが必要なことで、意味のあること。だから、今はこれでいい」なんて、余計なことも考えずに、ただ「辛い、苦しい、悲しいよって言えるようになること」かと思ったら、また涙が流れました。まだ気付かない、内なる自分の何かに触れたのかもしれません。
 この春、家族会7年目を迎える、ビギナーのありのままです。
平成17年3月2日

  幸せという
    花があるとすれば
  その花の
    蕾のようなものだろうか

  辛いという字がある
    もう少しで
  幸せに なれそうな字である

 私の好きな星野富弘の詩です。
まだ寒さの続くこの季節、水仙の蕾を見る度に幸せが膨らんで行くようで、うれしい私です。

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